社長の気持ち『望郷』
1998年岐阜県知事の「アルゼンチンで非常時に備え、食糧生産拠点としてプロジェクトを展開してくれないか」という呼びかけで始まったギアリンクスの活動。 空一面降るほどの星とホタルの光の乱舞に心を奪われ、社会的ミッションを果たすべく株式会社ギアリンクスを立ち上げました。
ホタルが覆い尽くす畑を耕すのは、中田と同じ岐阜県出身の日本人移民農家のみなさん。 ノコギリ一本で開拓を始めた彼らの苦労は決して過去のものではありません。
同じ岐阜県人のよしみ、同じ日本人のよしみ、
そんな昔ながらの日本人気質から始まった
日本人移民農家さんを応援する活動は、
アルゼンチンの黒にんにくから
隣のパラグアイへ、
そしてペルーのぶどう蒸留酒ピスコの
日本初となるちこり村での販売など
南米全体に広がっています。
そして、2011年3月11日 日本東北地方太平洋沖を震源に東日本大震災が起こります。
ちょうどその時、パラグアイを訪れていた中田に、日本人移民農家さんから自分たちが作った大豆100トンを東北の被災地に届けることはできないかとの申し出が。この申し出に大豆でお豆腐を作って被災地に届けることを提案し【心はひとつ 豆腐100万丁】プロジェクトが始動しました。
パラグアイは世界6位の大豆生産国、
パラグアイの地に最初に大豆の種を蒔いたのは日本人でした。
そんなパラグアイから届けられる大豆100トン。
お豆腐にして100万丁分。
このプロジェクトはパラグアイ国全体を巻き込んで、
豆腐製造にかかる費用4000万円のうち1000万円を
パラグアイ国内の募金によって集められることになったのです。
現地の1000万円は日本円に換算すると1億5千万円に 相当するとか。
母国日本への思いと 何もない土地を開墾することから始まった日系移民のみなさんにとって ゼロから始まる復興へ、重なる思いもあるのだと思います。
日本へ帰った中田は、まずお豆腐を作ってくれる製造者を探すことから始めることに。
こうして出来上がった【心はひとつ豆腐】は、15日と長持ちする充填式で、社員が運転するトラックに3500丁分詰め込んで第1便が東北に向かったのは2011年4月14日。
おに ぎりやパンなどが中心の避難所でお豆腐は大変喜ばれました。
東北へトラックで往復すること15回以上。
2012年2月には届けたお豆腐が100万丁を超えました。プロジェクトは達成しましたが大豆がまだ残っているので活動は続けています。
2012年5月30日、天皇陛下は南米パラグアイから来日したルゴ大統領(当時)と皇居・御所にて会見し、陛下は東日本大震災の際の同国の支援に感謝を伝えられました。
彼らが‘故郷に錦を飾る’お手伝いができたのではにかと思っています。
心に‘故郷’の思いがあるかどうか―しらない土地で、場所、環境で一から開拓する苦労を知っているかどうか。
いきなり父(前社長)が倒れ、素人同然で社長になり、その頃業界では前人未到の「無漂白・無農薬のもやし」作りに踏み出した中田は、ノコギリ一本で何もない土地を開拓することから始まった日本人移民の皆さんの苦労やそこから生まれる望郷の思いと通じるものがあったのかもしれません。
心に‘望郷’の思いがある人間になって下さい。
その分強くなれるはずです。
強くないと誰かの役に立つことはできませんから。株式会社サラダコスモ 中田智洋