「なかつがわ今昔物語」Vol.16 恵那山と画家・吉村唯七さん
徹底して「現場で描く」 登山装備にキャンバス携えて入山
そこで制作し続けた執念 滲み出る山の精髄
恵那山を描き続けた画家・吉村唯七(ただしち)さん(1906~84)のことをご紹介しましょう。
恵那山(2191m)は、中津川市の街なかからはまさに眼前。これまでご紹介してきた通り、映画「青い山脈」の撮影地となり、「国産み」神話を持つ山でもあり、旧「美濃国」の最高峰。市内にできるリニア中央新幹線の岐阜県内唯一の駅の名も、この山にちなんで命名してもよいくらい、と筆者は思います。
吉村さんはどう描いたのでしょう。
この春に14日間、市内の「詩と美術館」で吉村さんの20年ぶりの作品展が開かれました。四季折々の山容を油彩で描いた42点。東京などから遠来客もあり、500人以上が鑑賞しました。私的な小さな施設としては驚きの来館者数でした。館主の田中伸治さんは言います。「徹底して現場で描いた人。スケッチや写真をもとにアトリエで、といったことは一切しなかった。だから、山の持つ精髄や描き手の想いが滲み出て、凡庸な絵とは違う。それが人を引き付けるのではないでしょうか」
田中さんは昨年、有志と「中津川文化芸術継承委員会」をつくり、この作品展を企画。吉村さんの画集「恵那山百態」も編集・刊行しました。画集は65点を収め、身近に見た父親の姿と言葉をまとめた長女による「聞き書き」文も収録。登山装備をした上でキャンバスを携えて入山、制作に没入する姿などを伝えています。その時に描き切れなければ、翌年も同じ時季に同じ場所に行って制作を続け、数年をかけた作品もある、という執念の姿です。
最後に、吉村さんの生涯をまとめましょう。
明治の終わりごろに9人きょうだいの長男として中津川市に生まれ、著名な山岳画家・茨木猪之吉に弟子入りするために18歳で上京。しかし父親が病に倒れ、師の元での修業は2年で終わり、帰郷して会社勤めで家計を支えながら描き続けました。画塾も開いて子どもたちを善導。その姿は、NHKテレビが3度にわたり、特集番組で伝えました。

吉村さんの作品「湯舟沢晩夏」(1971年)

馬籠晩秋(1977年)

中津川1月(1975年)

霧ケ原吹雪の日(1968年)

晩年の吉村さん
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