社長5つの気持ち その4「変わり続ける編」
みなさんは、特に若い方は、これからの人生を歩んで行くにあたって、
「自分の人生は自分で決める!」と思っているでしょう。
自分は、こう進む!と心に決めて、意気揚揚としている人、
自分の道が見つからず、あせっている人、色々だと思います。
でも慌てる必要はありません。
もともと人生とは、こう!と決めた時から、自分の思いもしない、別の方向へ進んでいたりするものです。
仕事の話からは、少し離れて、中田の少年時代まで話は、さかのぼります。
少年時代の中田は、放浪癖があったと話します。
小学校3年生の時に、岐阜県中津川市からは、400キロほど離れた
母の実家神奈川県・大船まで1人で行った事があります。
汽車で12時間ほどかかったでしょうか。
町では、一躍有名になった話だとか。
そんな中田が、高校三年になった時には、ヒッチハイクで富士山まで向かいました。
登る時は、山梨県の吉田口から入ったのに、帰りは降口を間違えてしまい、
御殿場の方に降りてしまったそう。
そこで拾ってもらったトラックに伊勢神宮まで連れて行ってもらい、
結局フェリーで愛知県の伊良湖岬に渡り、大変な遠回りの末、
何とか家にたどり着いたこともあったといいます。
入り口と出口がちがってもいい。
最初の計画どおりでなくてもいい。
成り行きにまかせ、その時々にあった選択をして、
遠回りでも次に進んでいける。たどり着ける。
未来もヒッチハイクの旅のようなものかもしれません。
放浪の旅から得たものは大きかったといいます。
その放浪癖が、その後の会社の、サラダコスモの行く先を決めたとも言えます。
大学進学→教師をあきらめる→ラムネ屋を継ぐ→無添加・無農薬のもやし作りと、
その後、幾度となく人生の進路変更を余儀なくされましたが、
その度に挫折やら、遠回りやらを繰り返し、確実に前に進んで行きました。
本業のもやし製造がひと段落した時に、
中田のとった行動は、単身アメリカに渡り、カイワレ大根の種作りに取り掛かることでした。
止まってはいられない、放浪癖がまた顔を出したのかもしれません。
英語は話せない。知人がいるわけでもない。農業のことは何もわからない。
それでも、行けば何とかなるような気がしたと、中田は真剣に思っていたようです。
7年後、無事、無農薬のカイワレ大根の種の生産にこぎつけました。
ヒッチハイクを繰り返し、まわり道をし、無事に家にたどり着いた中田少年と姿がだぶります。
その後もカイワレO-157事件やら、何やら、平坦な道のりでは、ありませんでしたが、何とか成るものです。
次にやって来る車に、手を上げる勇気があれば。
もうすでに、中田は、次の手をあげているようです。
発芽野菜の生産、オランダでのチコリ生産。そして、中津川サラダ農園、三木生産センター、宇都宮工場増設、ちこり村・ちこり工場開設、新潟工場の取得。そしてサラダコスモ最大規模の養老新工場の着工。
変わって行くことを恐れずに、手をあげ続けます。
種の起源を発表したダーウィンも言っています。
「この世で生き残る生物は、最も頭の良い生き物でもなく、最も強い生き物でもなく、最も変化に対応できる生き物だ」と。
ちょっとカッコ良すぎたでしょうか。
実際は、ボロボロの泥だらけです。放浪の旅ですから。
何が起こるかわからないから、楽しいのです。
ずっと先まで、わかっている人生なんて、きっと1日で飽きてしまうと思いますよ。
株式会社サラダコスモ 中田智洋