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「なかつがわ今昔物語」Vol.6 東山道「神坂峠」

中山道の元  〝最難所〟の険しい道
天台宗祖・最澄が布施屋設ける 延暦寺僧侶が毎秋法要 峠は史跡に

東京―京都を結び、中津川市に3つの宿場がある「中山道(なかせんどう)」。遠い昔は「東山道(とうさんどう)」と呼ばれ、平安時代の高僧・最澄(さいちょう)が信州との境、「神坂(みさか)峠」(同市神坂)に足跡を残しています。

中山道の元となった古代の街道・東山道は、峠をいくつも越える険しい山道でした。中でも人里から遠く、急峻な神坂峠は最難所とされ、旅人の行き倒れや盗賊の出没もあったそうです。標高1569mの頂上付近では、勾玉(まがたま)や剣、土器などが出土しており、西国(さいごく)に赴く防人(さきもり)たちがこれらを祭具に行路の無事を祈ったのだろう、と想像されています。

その峠に至る道沿いに、「伝教大師広済院遺趾顕彰碑」と刻まれた石碑が立っています。伝教大師は最澄のこと。「広済(こうさい)院」は最澄がこの地に立てた布施屋、つまり救護・宿泊所です。

平安初期の817年、天台宗の宗祖・最澄は巡教の旅で神坂峠を歩き、旅人を無料で保護する布施屋を建てました。「遺趾(いし)」とは布施屋の跡を指します。その遺徳をしのんで、毎年11月23日に石碑の前で法要があり、今年も総本山の比叡山延暦寺の僧侶が読経しました。法要は地元挙げての催しにもなっています。

最澄は峠を挟んで長野県側(阿智村)にも布施屋を設け、そちらは「広拯(こうじょう)院」と呼ばれました。広済院と広拯院。どちらの遺趾も厚い仏心を伝えています。

東山道は時代とともに道筋を変え、信州では歩きやすい木曽川付近を通るようになり、新ルートの中山道は「木曽街道」とも呼ばれました。神坂峠は寂れましたが、希少な「峠祭祀」の遺跡として国の史跡に指定されています。

〈ちはやぶる神の御坂に幣(ぬさ)奉(まつ)り 齋(いわ)ふ命は母父(おもちち)が為〉

神坂峠を詠んだ歌が万葉集に記されています。

 

石碑のある広場。毎秋、法要が営まれる=中津川市神坂

「伝教大師広済院遺趾顕彰碑」(左)と最澄の童子像

顕彰碑付近の神坂峠に至る道

 


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